糸満漁業の歴史


1380~1429:南山王統期。当時、南山王は明に進貢船を27回送っており、進貢船の発着拠点のひとつが報得川河口であった。

その名残のある地域がトーシンザキ(唐船獄(報得川感潮域上部))、トーシングムイ(唐船小堀(山巓毛の西南西1km))、ティンマーガー(伝馬井戸(唐船嶽下部))、サンティンモウ(山巓毛)(本来ミチンサンチン(海鎮山鎮)と呼ばれ、南山の祭祀や交易船の遙拝所)。 また、かつて大型船に使用された碇石が最近市内から発見されている(糸満市中央公民館所蔵)。

唐船溜まりに停留された進貢船の物資の積み降ろしには伝馬船等小型舟が使われたようである。

当時の糸満漁業の様子は不明であるが、糸満地先海域は、三山の中でも広大なイノー(礁池、ラグーン)を有していることから、漁場条件としては恵まれていた。


1429 三山統一。

1434 王府、進貢品に鮫皮も含める(この年4000張、1436年3000張)。

鮫皮の他に、螺殻(ヤコウガイの殻)8500個、海巴(タカラガイ)550万個も同時に送られた。

螺殻はこの3年前にも11500個が送られており、三山統一間もない王府がこれだけ大量の海産物を2,3年で調達するには王府内全域から集めたと思われる。 統一王朝の帰国入港する進貢船?。 (珊瑚礁海特産の巻き貝の一部は弥生時代から交易品とされてきた)。


1500 この頃より糸満沿岸へ 漁猟(採貝等)のため移住する者が増えてくる


1609 薩摩藩、琉球を攻略

2年後には全域の検地を終了。その際クリ舟、ハキ舟も含める。(クリ舟は刳り舟で、ハキ舟は接き舟)


1613 薩摩藩、王府に対し、男も農耕に従事させよと通達。

この頃、当然ながら男の中には狩猟や漁猟に精を出す者がいたが、これは上納の確保の妨げとなっているとされたため。(後に王府も勧農政策を執る)


1633 王府、糸満の地頭が冊封使来琉用のための米30石を献上したとして褒章。

当時の糸満村の石高は単独では計上されず、隣接村の照屋村に含まれ併せて138石となっている。確かに糸満村には田畑はほとんどなかったはずで、そうすると魚介類で代替したのであろうか?(隣村の石高は兼城村が70石、賀数村が40石)。


1673 泊・若狭沿岸漁場の使用権を糸満海人が年間100貫文の上納銭で請ける。

この漁場はキビナゴ、スズメダイ、グルクン、ツムブリ、ローニンアジの好漁場であった。糸満海人は最早自前の広大な漁場ではもの足りず、那覇の「海方切」(地元に管理権がある地先海域)を買い取る程の勢力であった。

当時の貨幣価値:作業人夫の日当が1〜2貫文。


1692 泊・若狭沿岸漁場の使用権は地元泊村に請銭240貫文で移っていたが、糸満海人が同額で再度請ける。


1702 王府、八重山の木垣による網漁をしていた百姓に対し、農業を疎かにしているとの理由でこの漁を禁じる。

先島における王府の勧農政策(上納確保)。


1726 島尻のクリ舟数:

知念間切64、玉城間切26、大里間切10、佐敷間切9、兼城間切7、豊見城間切7、小禄間切6、真壁間切1、計130艘(ハキ舟0)。

この時期のはるか以前から、クリ舟は特に離島ではなくてはならないものであった。知念間切や玉城間切は離島があるので艘数が多くなっている。

糸満海人(兼城間切)は、遅くともこの50年前から、1桁台(?)の艘数でもって那覇地先にまで網漁等をしていた。


1729 泊・若狭沿岸漁場の使用権は那覇・泊の諸士が上訴し、泊・若狭町村に再度移る。


1737 王府、唐船の造船材確保のためクリ船の造船を禁ずる(流刑罪)。ハキ舟を奨励。

ハキ舟はクリ舟に比べ使用する木材量が少なく、大型化できる。


1749 薩摩藩、上納要求の中でハキ舟、クリ舟に係る上納額を841艘相当分2710貫文として算定。

ハキ舟:39艘、1艘に付50貫文、 クリ舟802艘、1艘に付1貫文。ハキ舟とクリ舟の算定額が50倍も開きがあるが、ここでいうハキ舟とは馬艦船等大型の接き舟を指していると思われる。


1749 王府、具志頭間切の海辺の百姓に対し、農業より稼ぎの少ない漁猟の従事をたしなめる。

当時、具志頭間切にはクリ舟、ハキ舟とも1艘もなく、漁猟高は貧弱であったためと思われ、そのような中で少なくとも漁猟にしか依存せざるを得ない糸満海人にはそのような通達はしなかったと思われる。


1755 泊・若狭沿岸漁場の使用権は冊封使の来琉に備え糸満村が請ける。

冊封使一行の対応のための魚介類の調達には、王府は地元の那覇・泊ではなく糸満の方に期待した。


1757 泊・若狭沿岸漁場の権利は那覇・泊へ返還される。

返還されるに当たって那覇・泊からは、「御冠船御用後も糸満の網が建てられていて釣りが出来ない」と訴えており、那覇・泊の人々は網漁はしていなかったようである。


1759 中頭・国頭のクリ舟数:

勝連、与那城両間切各102、伊平屋島65、国頭間切55(ハキ舟含む)、久志間切52(ハキ舟含む)、名護間切47(ハキ舟含む)、その他156(ハキ舟含む)、計579艘(ハキ舟30艘含む)。
この数字からも分かるが、離島はもとより、山岳地沿岸や河川地帯でも人や物資の運搬になくてはならないものであった。(クリ舟で大量の物資を運ぶには数艘のクリ舟を並列に繋いで台座を敷いて運んだ)。


1775 王府、渡名喜島の漁師が糸満でサメ釣り漁法を習得し、同島民に教えたとして称える。

遅くともこの頃までには糸満海人の鮫漁は秀でていた。


1787 王府、糸満海人が慶良間沖で難破船の乗組員を救助したとして褒章。

この記録(球陽)においては糸満海人のことを「魚を捕らへて業と為す」、「洋在りて捕魚する有り」と記述されており、一般の人民が農耕民であることに対し、王府においては糸満海人は「海洋民」とみていた。

(糸満海人は、多くの魚介類に名称を付けたり、海面でも海底地形ごとに呼び名を設けてきており、現在の魚類図鑑でも魚種名の地方名は糸満海人に使われてきたものがほとんどとなっている)


1792 王府、糸満海人が読谷山沖で難破船の乗組員を救助したとして褒章。

球陽に記された糸満海人のこのような活躍は、1876年までの間に述べ26件(1799年までには18件)もあるが、糸満海人が救助した場所は、そのほとんどが地元より遠方となっていることに対し、他地域の人々が救助した場所は地元海岸となっており、このことからしても糸満海人の航行範囲が広いことが分かる。(例:1761国頭、1783 久志、1789以前 沖永良部)


1798 泊・若狭沿岸漁場の使用権は冊封使の来琉に備え糸満村が請ける。

前回の冊封使来琉から43年経ているが、王府は依然として糸満海人に頼らざるを得なかった。


1800 この頃より海浜の埋め立てが進み、舟溜りを有する漁民集落「門(じょう(通り))」が形成されるようになる。(135年後の埋立図)


1808 糸満海人大城ら13名が浙江省に漂着。1811にも糸満海人(4隻8人)が福州に漂着。

明・清時代、漁猟舟(船)が大陸に漂着した事例はこの他に1件あるが(1828年沖永良部船13名浙江省)、3件とも装載貨物は魚であったとされ、何らかの船団を組んでいたと見られるが操業形態は不明(34名全員生還)。

( 漁猟舟(船)以外は300件弱が漂着(死亡者多数))。


1832 王府、 明との密貿易を禁ずる旨通達する。


1862 フカヒレの輸出量26000斤。長崎(出島)の3倍。

琉球からのフカヒレ(約8割が糸満産)は出島取り扱いのものに比べ品質が良く安価であったため、出島側(幕府)はこれを規制しようとしたが薩摩側が握りつぶした。


1874 最後の進貢により、糸満漁業はそれまでの沖合漁業中心から沿岸漁業へ移行し始める。

その頃からは欧米による貝殻の需要により採貝漁業が伸展する。


1879 琉球の廃藩置県


1881 県令による糸満視察報告

糸満は首里那覇に次ぐ一大部落で、漁獲物はみな那覇に運んで売りさばかれている。


1883 兼城間切のクリ舟数(ハキ舟含む)450艘(2位勝連間切120艘)。

これまでの百有余年の間、兼城間切のみが激増。

(全沖縄のクリ舟数は543艘、ハキ舟数は107艘 計650艘。宮古、八重山を除く)


1884 糸満海人玉城保太郎、ミーカガン(水中メガネ)を考案。

これにより採貝漁業や追込網漁業の伸展に大きく寄与した。


1889 明治政府(農商務省水産局)調査報告の一部:

「 県下各島々の沿岸部の人民は概ね農業が専業で漁業に従事している者は甚だ希。独り糸満村は漁村である。不完全である漁船で数拾里の沿海に出漁したり、各島に出稼している。老少男女の別なく終歳漁業に従事している。漁利あるところは絶島孤嶼であっても糸満の民の居ない処はない。大島七島でも糸満漁民が出稼している。」


1891 シムチキヤンラー(霜月崩れ)による海難事故発生(旧11月4日),(死亡者、行方不明者80余艘、100余人)。

ニンガチカジマーイ(2月風廻り)等による海難も頻発していたことから、親族等の全滅の危険分散のため、同一のサバニには同一の親族は乗組ませなかった。


1892 糸満海人金城亀、アギヤー(追込網漁法)を考案(中型 大型)

これによりグルクン等磯根魚類の漁獲能力が大きく向上するとともに、漁場の外延的拡大がなされる。


1900 糸満と小禄村大嶺の漁民の間で、チー干瀬の漁場利用を巡る現場騒動が起こる。その後、北部、中部地域でも惹起するようになる。


1901 糸満海人(4艘20人)残波沖で鯨を獲る(10尋大、曳航日数3日、売払額300円)。


1902 糸満村漁業の勢力

村の戸数1245戸、人口5578人 ( 1901年の警察署調査では、漁家786戸,4867人、 農家314戸,1970人)。

漁業専業者数(男)2155人(全沖縄の62%)。

漁業専業者数(女;カミアキネー(販売業)1820人(全沖縄の99%)。

漁業生産額91,158円(全沖縄の63%)。

全沖縄の50%以上を漁獲した魚種は、サメ(81%)、トビウオ(72%)、グルクン(86%)(以上100トン以上)の他6種類。

学齢児童数 1167人、うち就学児童数 320人(男167人、女157人(男女とも寄留人の子が多い?))。

(質屋14、湯屋7、旅人宿2、料理屋11、飲食店25、屠獣営業39、鳥獣肉販売店49。)


1902 王府時代から1889年までは、士族以外の平民は瓦葺の家は建ててはいけないと規制されていたが、糸満村ではこれが解禁されてから13年後には、6~7割は瓦葺に建てかえられた。

当時の糸満村の漁業生産額は県全体の63%を占め、また村の漁家戸数比率は63%であったことから、これら瓦葺の多くは漁家であったと思われる。


1903 糸満浦漁業組合設立。


1903 地租改正され、またその後増税策もとられ、貧困農民が増え、雇い子(男、女)も増えていく。

兼城間切の寄留人数:1899年123人→1919年1171人。

雇い子(送り出す側からは「糸満売り」)は、男の過剰人口を吸収しやすかったアギヤーの場合、そのほとんどが契約期間10年以下、20才までの年季奉公の形態となっていたが、大戦後の新たな社会制度下では違法となった。


1905 水産学校(文部省認可)が糸満村に設立される。


1906 第1糸満丸、第2糸満丸(各80トン、帆船)によるフカ延縄漁業が導入される。

しかし、間もなく両船とも座礁事故等により操業終焉する。


1907 県内に初めて漁業権が設定され、その際、特に糸満海人に対しては他地区への入漁権が認められるようになる。

(これまで糸満海人が行ってきた入漁形態を権利化することは、新たな漁業制度(漁業法)の趣旨に合致していた)。


1907 台湾基隆庁、糸満・八重山からのテングサ漁業者数を250名以下に制限(それまでは300〜400名が出漁していた)。


1908 町村制施行により兼城間切糸満村から分離し、県内唯一の糸満町になる。


1908 糸満海人に対する入漁拒否騒動が本部村漁業組合との間で起こり、その後浜比嘉や小湾などでも起こる。

合法ながらも漁獲圧の高い糸満漁業とこれに対抗する地域住民の地先海面の占有意識との摩擦は他の地域でも問題となっており、このことがひいては県外への出稼ぎ漁業、南洋諸島への出漁を促した。


1909 県内に動力漁船(カツオ一本釣り)が初出現する。

その後県内各地に急速に増隻され、これに伴いこれまでの糸満漁業の優位性が相対的に低下していく。


1915 本土への出稼ぎ漁業(追込網漁)始まる。

大戦勃発の頃までに太平洋岸は千葉県、日本海側は福井県にまで拡大。


1916 海外への出稼ぎ漁業(主に追込網漁)始まる。

大戦勃発の頃までに東南アジア、南洋諸島を中心に拡大。


1919 糸満と他地区の間の入漁権問題は、条件付きで23地域に入漁できることで決着。


1923 県内のカツオ動力漁船数119隻(糸満船は2隻)。

操業海域は南洋諸島にまで拡大。

この年の県内のカツオ漁獲高は200万円、鰹節生産額は294万円。

この頃の全県のサバニによる漁獲高は約60万円。


1935 船溜まりが埋め立てられ、漁船・漁具の保全機能が向上するとともに魚市場規模も拡大した。(当時の埋立図)


1937 糸満のサバニ隻数331隻(全県2430隻の14%)

漁業生産額は51、411円(全県のサバニによる漁獲高の9%、市町村別には3位)。

サバニ隻数は50年前より120隻も減っているが、糸満海人は県内外の沿岸地方に移住してきており、(大小合わせて20地区)、その転出による影響や国内外への出稼ぎによる影響も少なくないであろう。

当時の糸満のアギヤー組数 : 地元操業6組(うち2組はパンタタカー(主にリーフ内でする小型追込み網漁)) 、県外出漁7組、海外出漁2組。


戦前  糸満における舟大工(サバニ建造業者)は、明治、大正生まれの者だけでも少なくとも30名はいた。(上原性12名、玉城性9名、その他9名)

現在(2012年)では、サバニの建造はほとんどなくなり、この造船技術者も大城清、大城昇(両人とも昭和24年生)らしかいなくなっている。


1945 大戦終戦

糸満漁業を取り巻く世相 : 食料等の配給、漁獲物の供出、密貿易、ダイナマイト漁、不発弾等スクラップ業


戦前~戦後 糸満における蒲鉾製造業者数は累積で35経営体もあって、原料はサメ、グルクン、トビウオ、後年はマグロ等ほとんどが糸満産であった。

現在(2012)では、11経営体(全県で32体)、原料もスケソウタラ等外国産が主で県産魚はほとんど利用されなくなっている。

 
1947 この頃から サバニにエンジンが装備されるようになる。


1950 沖縄の長者番付に 糸満海人が1位と3位になる。


1952 琉球政府発足

この頃も依然として大戦の後遺症の中にあり、糸満海人でも米軍港荷役作業従事者が多くなるなどにより、漁業従事者が減り、糸満のアギヤーはなくなり、パンタタカーが数組残ったが、これも消滅していった。

そして、マグロ漁業や2,3人でも操業出来る底延縄漁業が盛んとなっていった。

これらもまた、資源問題等により長くは続かず、本土復帰後は、パヤオ漁業やソデイカ漁業等に移っていく。


1972 本土復帰

糸満に水産関係機関・団体及びインフラが集約され、一大水産都市として進展する。

県水産試験場、県水産業改良普及所、県水産高校、(財)県水産公社、(社)県漁業無線局、第3種漁港、水産加工団地、水産物地方卸売市場(開設後1年で休眠)、お魚センター、造船・修理所 。

県内では糸満でのみ「豊かな海づくり大会」を毎年開催。


2010 糸満漁業の現状。

漁業者数 141名(糸満市就業者人口の0.7%、全県漁業者数の 4.5%、市町村別順位 8位)。

漁業生産額 585百万円(うち72%がソデイカ漁業とパヤオ漁業)(糸満市全産業生産額の0.7%、全県漁業生産額の 5.8%、市町村別順位 7位)

「漁業」には養殖業含む(近年県内では養殖業が進展し、養殖業生産高は漁業生産高に追いつきつつある。糸満市の養殖業は約5%)


2012 11月17日,18日 第32回全国豊かな海づくり大会が糸満で開催される。